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奇跡体験!アンビリバボー10月29日戦後最大冤罪事件「弘前大学教授夫人殺人事件」の真相!本当は警察が・・・

奇跡体験!アンビリバボー10月29日は、「戦後最大とも言われた、冤罪事件」
「弘前大学教授夫人殺人事件」の真相!戦後最大冤罪事件はもう一つ松川事件
がある、今回のアンビリーバボーは「弘前大学教授夫人殺人事件」の冤罪を
取り上げています。その本当の真相は・・・・





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「弘前大学教授夫人殺人事件」とは


1949年(昭和24年)に青森県弘前市で発生した殺人事件、弘前事件と呼ばれているが
殺人の被害者の名をとって松永事件と冤罪の被害者名を取って那須事件とも呼ばれている

さて殺された弘前大学教授夫人は、夫の松永藤雄とともに広前氏の在府町で、松永が
東北大学に勤務していたころの患者宅の離れに妻と子供2人で住んでいた。

その土地は古くから武家屋敷が立ち並ぶところだった、その松永が住まわせてもらっている
ところから約200mほどのところに、屋島の戦いの「扇の的」で有名な那須与一の直系の
子孫が住んでいる屋敷があった、その屋敷に住んでいたのが、今回戦後最大冤罪事件の
犯人とされた那須隆の家があった。

事件が起きたのは1949年8月6日夜の22時ごろ、事件の起きた3日前に松永が仕事で
1週間ほど家を空けることになった、離れに済んでいた松永の妻は、4歳の娘と2人
ですごすことになり、不安になったため、実家から母を呼び寄せ3人で過ごすことに
そして川の字で寝ていたときに、事件が起こり妻は殺害されてしまった。

事件は難航し、警察は犯人がつかめない状態になっていた。そこに
200mほどに住んでいた那須隆が、その事件を聞き、翌日にはその事件を解決
しようと聞き込みなどを始めた、那須はこの事件を解決すれが自分に警察の
道が開けると思って事件に首を突っ込んでしまった。

聞き込みをしながら、犯人と思われる人物を警察に報告することで、逆に
警察は協力しすぎる人物が怪しいと初め、その熱心さが警察には
「不自然な熱心さ」が疑われることになり、捜査にいきずまった警察は
いっそのことこの那須を犯人にしててあげようと画策した。

那須さんが警察に嵌められたと言った真相は


那須さんの犯人としてでっち上げて証拠は白い靴と白シャツ、白い靴は
那須が8月21日に後輩の家に雨が降ったため、はいていきたくないほど
大事にしていた靴だった、その靴を後輩の家において那須は下駄を借りて
かえった、それが警察の手に渡り鑑定にかけた結果、靴に人の血が付着

しているとの理由で任意同行を求め、そのとき着ていた開襟白シャツを
着替えて出向いた、がその日の夜19時に家宅捜査が行なわれ、先ほど脱いだ
白シャツと骨董品の銃が押収された。

こうして那須が犯人だという証拠をでっち上げようとした警察、そして
殺された松永の妻の母の証言が、いい証拠となるが、この母は最初
殺した犯人の顔はほとんど見ていなかったと最初証言していたが、次に
証言したのが、自分が見た犯人とそっくりですと那須をみて証言した

最初顔はほとんど見ていなかったといったが、証言が次々と変わって
言った、精神鑑定でも残忍性や女性への興味を抑圧した反動がこの犯罪を
起こしたと鑑定された、この鑑定をしたのはおりしも、松永と親しかった
丸井が鑑定、そして白い靴や白いシャツについていたシミなどそれが

殺害された夫人の血痕だと証明されるまで、鑑定を繰り返した、血痕とは
いえないとの鑑定結果は握りつぶし、血痕と鑑定されるまで鑑定士を変えて
鑑定を繰り返した、警察は取り調べにおいて弁護士の接見も一切許さず
殴る蹴るなどしてさらに、トイレにもいかせないような拷問に近い取調べを
した、そして那須が有罪となった決め手は
・血痕のついていた白い靴と白いシャツ
・精神鑑定での残忍性や女性への興味を抑圧したための反動


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那須さんの裁判の結果
那須隆の裁判が始まる、一審では無罪判決がでたが二審で懲役15年の有罪判決
検察側の証拠や鑑定が主張通りに通った。
有罪が確定したのは1953年2月19日最高裁が上告を棄却し有罪確定した。

事件から20年真犯人が・・・
弘前大学教授夫人殺人事件の真犯人は三島由紀夫に影響を受け自首をしたが
その時はすでに時刻となっていた、実はこの真犯人、事件の1ヵ月後に別件で
警察に逮捕されていたが、事件当時のアリバイがあると犯人から外されていた
がそのアリバイは真犯人が友人に頼んでアリバイ作りをしていたのだった

この真犯人は、女性に対する強盗殺人容疑や強姦致傷罪など複数の事件を
起こし有罪判決を受け刑務所に入っていたそのとき那須氏とも留置所内でも
一緒、さらに、那須と子供のころからの知り合いでもあった。

真犯人と一緒に出所した仲間が自分の馴染みの弁護士に引き合わせたことから
真犯人のことを那須に打ち明け、再審に向けて動き始めた、真犯人は自分が
すでに時候が成立していると知ってからは、あの弘前大学教授夫人殺人事件
について詳しく告白し始めた。

そして再審が始まり、すべての証拠を検討しても、その証拠が犯行におよんだと
認めるに足りる証拠が何一つ存在しないとし、真犯人の証言も信憑性があるとし
事件から28年かけて、那須氏が53歳のときに遂に無罪判決が出た。

無罪が確定した日に那須氏は、事件以来自宅の玄関に掲げられなかった
那須と書かれた表札を再び取り付けた。そして刑事補償として1399万ほど
を受け取ったが亡き父の墓代をを抜いたすべてが国倍訴訟の費用に消えた

国家賠償は認めてはもらえなかった、免罪であるということによる賠償は
認めるが、国が違法行為であるということに対する国家賠償は行なわないと
いう結果になった。

那須隆氏が最後に残した言葉
那須氏は84歳でなくなったがそのとき那須氏が言った言葉は
「自分が死んだことは誰にも知らせないで欲しい」といったそうです。

弘前大学教授夫人殺人事件 (講談社文庫)



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